お勤め 武元上人と秀元上人

住職代々

一代一打念打の綴りごとく、謙譲上人の開基から脈々と法鐙をつないでまいりました。中興秀逸上人よりの住職の紹介です。

第26世 中興冨永秀逸上人

秀逸上人と有志

福圓寺中興の人といわれる、秀逸上人は昭和六年に福円寺住職を拝命されました。
弁栄聖者の御高弟犬谷仙界上人、熊野宗純上人、中川察道上人、佐々木為興上人、田中木叉上人等との深交厚く光明主義信仰に打ち込まれました。
上人の熱意は町内有志を動かし、当時の伊方小学校長先生以下、同校有志職員は念仏信仰に目覚むることになります。

この頃に福円寺を道身として日曜早朝念仏会が始められます。活動は次第に活発になり、昭和九年八月霊峰英彦山に於て、別時念仏会が開催の運ぴとなりました。別時念仏会に要する一切の用具は清掃用具にいたるまで皆が背負って山上に運び、修養道身の修養館を念仏道豊とし、宿泊は数軒の旅館にては収容しきれず民宿にて補うほどの活況をおさめます。記念すべき第一回の導師は熊野宗純上人、参加者は主に九州、さらに全国からの参加者を交えて百数十名に及びました。

開会に当っての秀逸上人の御挨拶は皆に感動をあたえたといいます。木魚の響き全山にこだまして、一同霊気が溢れんばかりだったそうです。以後毎年夏になると、田中木叉上人、熊野宗純上人、山本空外上人、佐々木為興上人を導師に迎え回を重ね、霊峰英彦山に於ける別時念仏会は全国的に有名なものとなりました。昭和14年、社会情勢(戦時態勢)その他により開催が許されず、会は中断される事となります。この念仏会に御縁を得た信者数多く、秀逸上人念仏会の果たした成果は計り知れないものとなりました。
数々の勤めを果たされた秀逸上人は、昭和29年8月23日午前3時20分、称名念仏の中大往生されます。満60歳。後の住職、武元上人は大学4年生でした。

第27世 冨永武元上人

念仏中の武元上人

昭和29年9月30日福圓寺住職拝命
平成8年 僧正叙任

大学4年生の時、若くして福圓寺住職を拝命された武元上人は皆に支えられた恩に厚くお勤めをされ、僧正になられた上人です。称名念仏に徹し、さまざまな機を捉えて福圓寺の伽藍整備に尽力されました。

現在は秀元上人に代を譲られ、お念仏に勤められています。

無財の七施 ( 武元上人の随筆)

「捨身施」「心慮施」「和顔施」「慈眼施」「愛語施」「床座施」「房舎施」この7つの布施は生活にある「身、口、意」の三業でできることですが、なかなか出来にくいものです。
20年程前の四月下旬に、兵庫県の檀家さんの三周忌の法事に参って、その帰リの新幹線の中で、ある男子学生の隣の座席に座りました。
広島を通過して車内にアイスクリームを売りに来ましたので、2個買ってその学生さんに宣しかったらと申して差し上げました。
そのアイスクリームが縁となって、なんだか意気消沈したその学生さんと、子どもの知らない親の心などを話して、その学生さんは、山口県小野田市で下車してとホームから私を見送ってくれました。
それから数日して、女性からの手紙が来たのですが、知らない名前ですので不思議に思い、開封し読んで見たところ、三日前の新幹線の学生さんの母親からのお礼状でした。

磨かれた聖光殿で

その文面によりますと、息子さんは東京のある大学に入学し、中途退学して帰る途中、私と姫略より同席し、広島で二百円のアイスクリームが縁と成って、話を聞いたお陰で、息子さんは家に帰って本当のことを両親に話そうという勇気が起ったということです。
もし同席していなかったら、息子は家に帰る勇気を与えられずどうなっていたかと思うと、母親としてそのお陰が本当にありがたかったという結びでした。

「人生は出会いに始まり出会いに於る」と申しますが、本当に出会いの大切さを実感致しました。
金銭の大小ではない、何気無く見返リを求めない施しの中に、人を生かす御仏の教えと導きとお育てが有リますことを感じました。
高祖善導大師様は、「念々称名常懺悔」と申しておられますが、念々に念仏称名する事は、常に懺悔の心を起すことであるという意味ですが、この愚かな私が念仏称名させて頂く中に、いつの間にか真実の布施の心を頂くお育てに預かる事を念じその様に務めたいものです。
合掌

第28世 冨永秀元上人 

勤修中の秀元上人

昭和56年 福圓寺副住職就任
平成18年 福圓寺住職拝命

福圓寺住職、秀元上人は、住職就任まで副住職として研鑚を重ね、建築に約2年の歳月を要した荘厳なる本堂ならびに諸堂を再建と山門、聖光殿の増築、境内の造園手配の重責を全うしました。笛を奏でるのが好きな上人は、鎮西楽所という九州の淨土宗雅楽グループの竜笛を受け持っています。その笛の音は大陸アジアから日本へ姿を変えながら吹き抜ける自在な龍を思わせます。

「以前から、竹笛、明笛(みんてき)が好きで祭りで吹いていました。雅楽の龍笛を吹いてみたいなと、昭和63年に先輩方がお宮さんの雅楽会で始めたと聞き、参加しました。8名から始まった集まりでせっかくだから有名な先生に指導いただこうと、京都えびす神社宮司中川清先生に来ていただいて、平成元年1月に最初の鎮西楽所の稽古が始まりました。

お気軽にご参詣ください

官(管)方といいまして、笙と篳篥、龍笛といって三楽といいます。いずれも竹で出来ていまして 笙が和音、篳篥が主旋律、龍笛は主旋律についたり離れたりしながら竜が昇るように吹いていくのが役目です。笙が空間を表して篳篥が人の声、自然の中の空間を表しているような気がいたします。雅楽の起こりは中東で、中東からヨーロッパへ、さらにアジアに来て変化したものが雅楽、日本で完成され、今に伝わる雅楽です。アジア大陸にやって来て最後に中国大陸と朝鮮半島に分かれたんですが笙、篳篥、龍笛が中国大陸からつたわったものです。今、日本で雅楽と呼ばれているイメージを持っているものです。朝鮮半島からのものは笙がなくなってしまって篳篥と笛だけがつたわってきて、これは高麗楽(こまがく)と呼ばれているのですが、これに中国のものが合わさってきたのが日本で雅楽として変化し確立されたということです。中国などでは途絶えてしまって今は日本から逆に伝えに行っている状態です。最終的に完成されたものをそのまま伝えている凄さに魅力を感じています。
竹のような自然から生まれたものが醸し出す音が好きでした。つくった形ではなく、もともとのものが音を出していく官方の楽器の魅力です。なんとも奥が深いものです。15周年は博多座で行いました。20周年も博多座で行なおうとメンバーで決めております。」

「自分が産んだ娘は、他家より預かって育てた故 大きくなったら 他家へ帰したのだよ、故に息子の嫁を大事に」 第26世内室

ご本尊のご案内です。合掌

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