ありし日の三菱方城炭鉱

方城炭鉱慰霊供養

救助作業

尊い犠牲に支えられる今を忘れない

方城町付近は石炭層が露出しているほどに莫大な石炭資源が地下に埋蔵されておりました。その豊富な炭鉱資源のため明治41年に三菱合資会社によって炭鉱が開坑されます。
大正二年には筑豊地区は当時国内の産出量の半分に達するほどの大出炭地で昔は寒村だった村も賑やかな町の様相でした。

先代住職が生まれる前、炭鉱が開坑して6年目の大正3年12月15日午前9時40分頃、日本最大の炭鉱事故「方城大非常」が起こりました。その大惨事は地下約270Mの深さの採掘現場で起こった大爆発によるものでした。激しい爆発音とともに地面は揺れ、地上まで黒煙のきのこ雲が吹き上がるほどだったといいます。殉職者は名前がわかっている入坑者だけでも667名(福圓寺の記録による)といわれています。入坑者の内、生存者はわずか18名でした。
当時方城村では約4千人の人が住んでいましたが、そのうちの5分の1もの方が一瞬にして、200メートルを越える地底で尊い命を落としました。

正確な人数は把握されていませんが、名簿に載っていない方を含めると千人を越える殉職者をだしたとも伝えられています。当時の石炭の産出量から計算すると1008名から1249名の殉職者がいる可能性があるとのことです。
親子、夫婦などの入坑者もおおく殉職者の中には12歳の子どももいました。一家全滅が22名、多くの孤児(十五歳以下784名)と孤老(60歳以上51名)を生み出すこととなりました。地元方城村の村民は71名の殉職者が出ています。
さらに救助活動中の2名の方が復旧工事の事故でなくなっています。

昭和11年の石炭庁資料によれば石炭1000万トン当り死者は241人という状態でした。大正3年の方城大非常の年は直方市石炭記念館の資料によると全国出炭2229万3千トンの内、九州出炭1645万8千トンです。九州だけで凡そ7割の当時の国産の主要エネルギーである石炭を支えた陰には痛ましい犠牲があり、今日の発展の礎となっていることを忘れてはなりません。

方城炭鉱大非常の体験
我が家の大非常

白石鶴代

「上がったかな。」
家に入るなり、姑に尋ねられ、黙って首を振るだけでものも云えんじゃった。
昨日の大非常で、父ちゃんが上がって来るのを待ち続けていると、ミカンが良い(根拠がなく、ミカンの酸がガスを中和するによいということで坑口から投げ込んでいた。参考『方城大非常』)とかで、たくさん坑内にうつしていた。
どうにかこれで、助かるようにと何度も念じ、もしかしたらと一綾の望みをかけて、夜更けまで待っていたら、何人か負傷して助かった人もいたが、それは僅かで、時が経つにつれて絶望へと変わった。
二、三日前の裏の薮で、うんと烏が鳴きよったが、この知らせじゃったんやろうか…。
上の子ども二人は早やふとんに眠っていた。
今年五月に生まれたむずかる児を、姑から抱きとり、乳をふくませたが、大非常のショックと悲しみのため、いくらもでない乳を、吸っても吸っても満腹にならんのじゃろう。ぐずってばっかり。
早速、朝から作っておいた重湯を温めて呑ませると、腹いっぱいになったのか、乳首を離し眠った。
自分は遅い夕食を取ったが、砂を噛む思いで、食べる気もせず、そこそこに片づけ、泣き腫らした目をしばつかせながら子どもに添い寝した。
思いは大爆発の事、轟音・黒煙・坑口にかけつけた家族の泣き叫び、遺体が上がる毎に救援隊の「上がりよるぞ。」「あがったぞ!」の悲痛な声が耳から離れない。
それは怨念や魂が残らんごとと云うのだとの事。
納棺されているのは、もしや、父や子どもではないかと、手がかりを求めて、次々に探していた。
今日も上がってこん父ちゃんを待って、姑達もうちも夜は眠れんじゃつた。
うとうとしていると、突然全身びしょ濡れの父ちゃんが庭に戻ってきた。
「アレ、父ちゃんが帰ってきた。早よう子どもに見せな。」と子どもを揺り起こそうとしたら、「そうしてくれるな。俺の行き先がならん。」と云って消えた。
一時過ぎの事で、夢枕に立ったんじゃろう、その日の朝、「上がったぞう。」の声と共に上がった遺体。
汚れていたが、奇麗に洗ってもらうと、着衣からすぐにわかった。うちが織った木綿縞。わかったとたんに気が遠くなりそうで、よろめき、地べたに、へなへなと座りこんでしもうて、涙も出らんじゃった。運よく助かった人に聞くところによると、
宮大工であった父ちゃんは、爆発直前、入口に近い所で門を作りよったげな。それがどうして、危ないところに行ったんじゃろか。額に釘が刺さっていたそうな。
年末や年が明けてから上がった遺体はくずれて、誰と判らない人が多く、悪臭もひどく、手足がもげたり、ひどいのはエブでかかえて上げられた人もいたと云う。
思えば、宮の大工仕事はおろか、家を建てる仕事さえ遠くまで行かんとないので、すぐ近くにある炭坑で働こうと行き始めた。
戻ってくると酒も呑まん父ちゃんは夕食の後、末っ子をどてらの懐に入れて、「こうしてやると、足をよう伸ばすだい。」と、喜んでいたもんや。
その時、父ちゃんは三十六才、うちは三十五才で後家になり苦労したよ。三人の子どもを育てるのにね。今は夢のごとあるけど、「上がりよぞう。」「上がったぞう。」の声は、
今でん忘れられん。
炭坑は恐ろしいとこバイ。
それでも、しばらく経って又、大勢の人が働くごとなったもんね。と、姑は一気に語り、タバコ盆を引き寄せて、「ききょう」と云うきざみタバコをキセルにつめて、おいしそうに一服吸った。
全盛の時代は、周囲の村や町も潤され、景気が良かったし、息子も坑内まで行かずとも病院で働いており、芝はぐり・大非常・復興・全盛時代・衰退そして閉山、すべてを眺めてきた、姑はずいぶん複雑な気持ちであったろう。
その姑もなくなり、非常以来、三代目の姑である私も高齢になったので、我が家の大非常を子や孫に伝えたいと考え、「かたりべ」に投稿しました。

方城町教育委員会『方城のかたりべ』より

お位牌 三菱炭鉱横死諸霊

本堂にて大切に供養されている位牌

「事故が発生して100年を過ぎた今でもご位牌におこる現象は不思議なもので、犠牲になられた方の便りのようです。

本堂が新しくなったのでお位牌を80数年ぶりに塗り替えようとういことで、仏師の方に塗り替えていただくという事で、お魂抜きをして667柱の名前の書いた霊艦帳に魂をうつして工場にもって帰っていただきました。来られた仏師の一人がたまたま霊感のある人のところに寄ったところ、「あなた、いったい今日はどこに行ってきたんだ?」と言われたのだそうです。そこで、仏師の方が今まで仕事してきたんだ。福圓寺さんにお位牌を預かってお位牌を治めて帰った所だというと、「お位牌って炭鉱の所のか?あなたの後ろに顔を真っ黒にした人がたくさんついてきているよ」という話でたいへん驚いて、一生懸命精魂込めて仕事をされたそうです。修復するにあたり写真を移すと位牌の下に蜘蛛のようなものがまっくろにうつっていたりなど、いろいろと不思議な事が起こりました。

子どもさんを残して一瞬のうちに何も分らず、いつなくなったかも分らない方が数百人と、事故でなくなられて、既に100年余りの月日が流れています。
全国各地にご遺族の方々がいらっしゃるんですが、突然12月15日の法要の最中に、ご遺族の方が法要もご存知無く偶然訪ねてこられたこともありました。たまたま法要がおこなわれておりまして驚かれながらお参りされたことでした。毎朝、阿弥陀如来様へのおつとめの後に殉職者の方の御諸精霊の菩提を弔っております。納骨堂の霊、境内に縁のあった方などの、古来からこの地は生活の場でしたから、因縁ある福園寺と無縁の仏様のために毎日お勤めをしていきたいと思っています。」福圓寺住職

福圓寺の概要をどうぞ

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