先祖を想う心
今 日(9月30日)午後、以前 東金田に住んでいらした「桑野毅家」の御親族の方々10名が旧金田町の桑野家墓地に葬られていた30霊の御先祖の遺骨を福圓寺 蓮華藏(納骨堂)に改葬(埋葬の場所を改めること)に来られ、御先祖の遺骨を包んでいた白い布を真っ白なものに取り替え、数十年、数百年後の子孫が困るこ とのないようにとの願いを込めて、それぞれに自分たちの手で名前を書き入れ、納骨されました。いくら文明が発達しても、御先祖そして子孫を想う心は どの時代も変わることはないと思います。納骨が終わり、桑野家の方々と「今日は桑野家にとって記念すべき歴史の1ページですね」と共に喜び、本堂前で記念 撮影をいたしました。
“先祖を想う心は わが命の深きを想う心” 合掌
秋季彼岸 永代経法要
“秋しぐれ 借りるばかりの 人の恩”
今 日でお彼岸も終わりです。22日、23日の2日間、当山 秋季彼岸会、永代経法要が勤まり、多くの人々のお参りの中で、またいつもと変らぬ穏やかなお彼岸を終えることが出来ました。お手伝い頂いた世話人の方々、 オトキ当番の後谷、前村の婦人会の方々、あたたかい心配りありがとうございました。合掌
青雲会書道展
今月9月11日~17日まで田川のギャラリー喫茶「にちゆう」で行なわれていた第9回青雲会展、多くの方々のご来場があり、盛会裏に終わったとの報告がありました。私は残念ながら伺う予定だった17日に台風13号の不意打ちに遭い、結局失礼してしまいました。
会員の方より当日の写真を数枚いただきましたので、行ったつもりで掲載させていただきます。
会員の方より当日の写真を数枚いただきましたので、行ったつもりで掲載させていただきます。
本多青雲先生がなくなられて四年。今後とも益々精進を重ね、見る人の心を惹きつける作品をお書きいただきますよう祈念致し、お祝いとさせていただきます。合掌
文化講座 「料理教室」
今日午前10時より 聖光殿 厨房において、福圓寺文化講座「料理教室」があり、平成12年6月の第1回目開講から、今回で69回を数えました。
現在10名の会員の方々が料理の腕を磨くこと半分(?)出来上がった料理の試食の楽しみ半分(?)で、講師の久富好幸先生(たちばな寿司)の熱心なご指導に耳を傾けています。
現在10名の会員の方々が料理の腕を磨くこと半分(?)出来上がった料理の試食の楽しみ半分(?)で、講師の久富好幸先生(たちばな寿司)の熱心なご指導に耳を傾けています。
私もこの日だけはお昼が楽しみです(?)。
風邪
2~3日前より少し寒くなったせいか、昨日は少し体がだるく微熱もあり、久しぶりに病院に掛かりました。病院での診断は風邪との事、まだ全快とはいきませんが今日はかなり快復して無事法務を行なうことが出来ました。お彼岸の法要を前に、回りから無理をせずに健康に気をつけるようにとの苦言を頂き、油断していた自分に反省し乍、少し早めの寒さに感謝しつつ、9月22日、23日の法要の準備をしていきたいと思います。
「秋季彼岸、永代経法要」
9月22日(昼席1時・夜席7時)・23日(昼席1時) ・23日のみオトキ11時より
布教師・大分県杵築市 迎接寺住職 永徳光明師
朝念仏
明日10日(毎月第2日曜日)は、朝6時から7時まで、1時間の念仏会です。朝の静寂な空気の中で一心に木魚を打ちながら称える念仏は、最初は辛いけれども、日常の生活の中ではなかなか味わえないものがあります。7時からはお経のお稽古もあります。
”一度体験してみませんか ”
”一度体験してみませんか ”
大自然の中に如来様のお慈悲を感じ……
一 昨日より昨日にかけて熊本県阿蘇市にお檀家のお葬儀に出かけました。お寺から車で高速道路を走って約3時間。阿蘇という土地は、人情味深い人柄と、雄大な 自然が何とも心地よい所です。阿蘇の雄大な自然に触れていると、時間がゆっくりと流れていきます。遺族の方々や近所の友人の方々と共に、故人の冥福を祈り ながら お称えするお念仏がよりいっそう有難く感じられ、参列の方の「故人が間違いなくお浄土に生まれていく気がしました」との言葉には、口では言えない感動と如 来様の大慈悲を感じ、何とも有難いひと時でした。
ことば
仏教用語に「往生」という言葉があります。
先 日、JRの駅のホームで電車を待っていると、隣から「昨日は 電車が遅れ、往生したな」という会話が耳に飛び込んできました。ここで使われている「往生」という言葉は、「どうにもしようがなく、困ってほとほと閉口し た」という意味に用いられている言葉です。しかし、元の意味は全く違います。読んで字のごとく、これは「往き生まれる」ということであり、どこへ往き生ま れるのかというと、阿弥陀さまのいらっしゃる仏国(浄土)を志しています。つまり、仏教を信仰する人が、一つの目的に向かって精進努力し、その目的を達成 することを「往生」というのであり、今日のように、困りきった時に使う言葉では本来ありません。受験生が一生懸命努力して、希望の学校に合格することも 「往生」ということです。日常私たちが何気なく使っている言葉の中にも、本来の意味とはまったく正反対の意味で使われているものがあります。
何事も少し角度を変えて見てみると、また違ったものが見えてくるようです。
先 日、JRの駅のホームで電車を待っていると、隣から「昨日は 電車が遅れ、往生したな」という会話が耳に飛び込んできました。ここで使われている「往生」という言葉は、「どうにもしようがなく、困ってほとほと閉口し た」という意味に用いられている言葉です。しかし、元の意味は全く違います。読んで字のごとく、これは「往き生まれる」ということであり、どこへ往き生ま れるのかというと、阿弥陀さまのいらっしゃる仏国(浄土)を志しています。つまり、仏教を信仰する人が、一つの目的に向かって精進努力し、その目的を達成 することを「往生」というのであり、今日のように、困りきった時に使う言葉では本来ありません。受験生が一生懸命努力して、希望の学校に合格することも 「往生」ということです。日常私たちが何気なく使っている言葉の中にも、本来の意味とはまったく正反対の意味で使われているものがあります。
何事も少し角度を変えて見てみると、また違ったものが見えてくるようです。